Nadja の日記
2014-01-01 18:32:45  H/Nを“Nadja”に統一するよ

年も明けたことだし、良い機会なので、私のハンドルを“Nadja”に統一しようかなと思ってますよというお話。ナジャって読みます。

 
私はPC-VAN入会依頼、ずっと“月影”というハンドルを使ってきたんですが、そろそろこの厨ニ的な名前を使うのもアレな感じがしてきましてですね。まぁ今更ではあるんですが。
 
個人ページとかブログとか一部SNSとかでも、なし崩し的に月影というのを使ってきたんですが、ぶっちゃけこの名前には特に意味も愛着もありません。ガラスの仮面が好きとかシレンをやりこんでたとか、そういうわけでもなくね。
 
PC-VANのSIGでは今のネットみたいに匿名で書き込めるわけではなく、自分が何者であるというのを名乗る必要があったので、そのときたまたま頭の中に浮かんだのがこの2文字でしたと。
 
その後、ずっと名前を考えるのが面倒で、新たなコミュニティに参加するたびに、まぁPC-VANのままでいいやという感じで月影を名乗ってきました。
 
ところがある日、とあるネトゲを始めるにあたり、そこでも同様にキャラ名をつける必要があったんですが、まず日本語が、というか漢字が使えませんでしたと。じゃあローマ字でいっかと“Tsukikage”としようとしたんですが、すでに使用されてる名前だったらしく登録できず。
 
で、当時、私はちょうど“ぷよぷよ”というゲームをやり込んでおりまして、じゃあその中のキャラ名でも使わせてもらうか、と、選んだのが、その主人公であるArle(アルル)という名前。実はこれもすでに使われてるかなぁとダメ元で登録してみたところが、何とこれは未使用でそのまま登録できちゃいましたと。
 
ただ、今はこの名前もアレな感じがしてまして、というのも、アルルって、ぷよぷよ知ってる人ならわかると思うけど、♀キャラなんですよね。しかし、そこでメイクしたキャラは♂という、何というか、カミーユ状態というか。
 
その後もオンラインゲーやるときは、何となくぷよ系のキャラ名を使うことが多くなっていくんですが、これまたね、そのままシェゾとかラグナスとかパノッティとか名乗るのもベタな気がしてる今日この頃。
 
そこで行き着いたのが“Nadja”。元ネタは、やはり“ぷよぷよ”ね。フランス文学とか、昔そんなタイトルのアニメもありましたが、関係ないです。これはアルルのラストネーム(Arle-Nadja)。そのまんまアルルはベタだし♀だしで微妙なので、一歩引いて、わかる人ならわかる感じでナジャ。
 
というわけで、今後私が積極的にアイデンティティを示す場合はNadja(ナジャ)でいこうと思いますが、後方互換も保つつもりですので、今まで通り、月影とかアルルとか呼んで頂いてもOKでございます。
 
あ、本名をご存知の方は本名でも良いですが、私は基本的にネット上に本名を晒さないポリシーなので(正確にいうと、fbもあるので晒してるっちゃ晒してるんだけど、今このアイデンティティと私本人はリンクさせないようにしてるって意味)、本名で呼ぶのはメールとかメッセンジャー限定でよろしくです。
 
そんなどうでも良い話。


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2013-11-04 16:43:00  寄生虫の矛盾

世の中は矛盾に満ちたことだらけだけど、それは私たち人の感覚で矛盾しているように見えているだけであり、実は何かの観点で見ると理にかなっているものばかりであることに気付く。

寄 生虫というのは、宿主の体内に住み着いて、そこで栄養を摂取して生きている。なので、その宿主に危害を加えるということは矛盾しているようにみえる。まし て宿主を絶命させるに至ってしまった場合、その時点で寄生虫自身の生命も終わるということだ。星新一もそんな寄生虫は愚かだといっている。

し かし、寄生虫のライフサイクルは宿主のそれとは必ずしも同期しない。宿主が死んだら別の宿主へ移れば生き延びることができる。むしろ、それが寄生虫の目的 であるともいえる。つまり、1つの宿主に安住せず、宿主を変える過程で自らの子孫を拡散していくことが彼らの目的であると考えると、ある程度成熟した寄生 虫は、その宿主を早めに破棄した方が効率が良いということになる。

要は、寄生虫とかその類にはなるべく寄生されないに限るということ。



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2013-08-24 17:57:21  電気は足りてるから原発は不要という理屈

 主に反原発の方がよく口癖のようにいう話で、現状原発は(大飯以外)全部止まってるのに電気足りてるじゃないか、だから原発なんて必要ないじゃないかという言説。一見その通りかなとも思えるんだけど、これは電力会社の経営と運営を完全に無視した理屈だということを知っておくべきだと思うのですよ。

どういうことか。

これは、現状の電力各社の経営状況をみれば一目瞭然のこと。もともと原発を使ってなかった沖縄を除く電力会社は軒並み赤字転落してるか、そうでなくても経営状況が大きく悪化してます。原発が稼働していた頃の電力事業といえば赤字に落ちるなんてことは考えられない優良事業だったことを考えると、原発がなくなったことによる各社への影響は相当に大きかったことは明らかです。

原発がほぼ止まっている現在でも電力がなぜ足りているかといえば、当然のことですが、従来原発が供給していたのと同程度の電力を、他の電源で供給しているということ。それは主に石油や天然ガスなどの化石燃料を使用した火力発電でしょう。そして、その化石燃料の価格は今世界的に高騰傾向にあります。仮に燃料の価格が上がってなかったとしても、火力の運用には原子力の数倍から数十倍のコストがかかります。

原発の杜撰な管理で事故ったのだから、その後始末で電力会社の経営が落ち込むのは当然でしょ?という話もあります。でも、原発事故で後始末作業をしているのは、事故を起こした福島第一原発を擁していた東京電力だけ。これは、事故とは直接関係ない他の電力会社まで赤字転落した理由にはなりません。

現状、電力会社は電気をつくればつくるほど赤字になるという状態を余儀なくされていて、原発再稼働でもしなければこの状況を脱することができなくなっています。そうでなければ、最低でも原子力と火力の燃料費の差分を埋め合わせるだけの運用コストを利用者に電気料金として請求していくしかない。しかし、今の世論はそのいずれも許さないという手詰まりな状況になっているわけです。

では、原発を使う以外の道はないのか。

もちろんあります。太陽光、風力、波力、地熱などの再生可能エネルギーの開発を実用化するという道。エコ技術を発達させて、少ない電力消費で現状と同程度かそれ以上の生活レベルを維持できるようにする道。火力発電の熱効率をさらに向上させて、より少ない燃料で多くの電力を得る技術を追求する道。火力でも石油や天然ガス以外のコストの低い燃料、例えば石炭やメタン、或いは木材などの燃料を利用する道… 

ただ、それらのいずれも今すぐどうにかなるという方法や技術ではない。例えば、再生可能エネルギーを開発する場合でも、それが実用レベル、採算レベルに乗るには、今から本気で技術開発するにしても最低10年程度は必要なはずです。それまで電力会社はずっと赤字経営していれば良いのでしょうか。

私も別に原発を推進しようといっているのではないんですよ。ただ、原発を使わずして電力供給をするという事業がいかに難しいことかということを、反原発の人は理解していないというか、それを知ろうともしていないような姿勢が見られるので、そのへんも少し考えてあげたらどうかといいたいわけです。

確かに、今までの電力会社の経営体質は褒められるものではない。原発が事故るハズがないという前提の上に経営を立てていたり、電力需要が世の中から消えるはずはないので経営が傾くはずがないという殿様商売をずっと続けていただろうということは否定できません。そして、そのように長年続いてきた体質というのも一朝一夕で変わるものではないわけで、今も旧態依然で保身的な幹部が経営の中枢に少なからず存在し続けていることも問題といえます。

ただ、仮に今の電力会社が潰れて新たな事業者が現れたとしても、おそらく同様の問題を抱えることになるはずなんです。仮に新しい電力会社ができて、原発ゼロで健全な経営を成立させていくとなった場合、その電気料金は今の2倍、3倍になるどころでは済まないでしょう。

原発というのは、その性質上非常に危険な施設であることは否定できません。事故が発生する危険性はゼロではない、事故時に周囲に与える影響度の度合い、使用済み燃料をどう処理するかという問題、廃炉にも相当に期間を要するという問題と、未解決の問題は多くある。

いずれにしろ、今の時代、人が生きていくには電気が必要であるという事実がある以上、どちらかを選択しなければならないわけで、そのうちどちらが今すぐにでもできることで、現実的な方法かといえば、答えは自ずと決まってるように思える。そうでないというなら、とにかく反対、危険だから反対というばかりではなくて、上記のような問題をどう解決するのかを提示して欲しいと思うのですよね。



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2013-05-21 23:24:42  乙武さんが入店拒否されたお話

いろいろ思うところがあったので、何となく書いとこうかなと。

まず、今回の件につてのまとめ。

釣り解説"乙武洋匡さん、銀座の「TRATTORIA GANZO」に「車椅子だから」と入店拒否される"
(togetter.com)

タイトルがアレですが、これはまず元になったまとめ(togetter.com)があって、これが乙武さんサイドに偏った視点で書かれているために、これ釣りなんじゃね?っていう観点でメタ的に書かれたまとめだからっぽい。

とりあえずコトの顛末を端的に書くと、乙武さんが友人の女性と2人でとあるイタ飯屋に行ったところ、その店が手狭な雑居ビルの2階にありエレベータも止まらないという状況だったと。そこで店の人に頼んで乙武さん自身を店内まで運んでもらうようお願いしたところ、その店のオーナーはこれを拒否。その言い草が乙武さんの逆鱗に触れたらしく、そのことをTwitterで61万人のフォロワーに向けて、その店の名前を晒して非難ツイート。そして炎上。

これに関する乙武さん自身の釈明ブログがこちら。 

イタリアン入店拒否について
(ototake.com)

まずいっておくと、私自身は乙武さんに対して特に強いヘイト感情は持ってない。ときどき「リア充爆発しろ」とは思うけど、まぁその程度である(えっ?) あ、いや、別に嫌いではないですよと。特に彼が私にとって有害であるわけではないし。

で、この件の論点はいくつかあるけど、とりあえずTwitterなどで一番騒がれていることについて考えてみる。

オーナーが入店を拒否した理由

乙武さんが障害者だから、というのは間接的な理由。直接には、彼が障害者であるがゆえに車椅子で移動する必要があり、その車椅子での入店が不可能であったことが主な理由。店が2階ということもあり、彼が入店するためには、誰かが彼の体を抱えて店内へ運ぶ必要があり、彼の連れの女性はそれが不可能だった。必然的にホールスタッフがそれをすることになるのだけど、さて、その必要があったかという点で、その店のオーナーの判断が注目される。

オーナーによれば、車椅子であっても事前にそのことを伝えていればOKだった模様。ということは、事前連絡なしでも無理すれば不可能ではないとも思える。道義的には、運んであげたらいいでしょ、と感じるけど、小規模経営でホールスタッフも2名だけとのことで、タイミングも丁度週末の食事時ということで忙しく、事前準備なしのまま階段で転落事故が発生するリスクまで考えると、店(の責任者)としてそれを断るという判断も十分理にかなっている。

まぁぶっちゃけ、オーナーの感情的には「このクソ忙しいときに無理いうな」という部分もあったでしょうが。

乙武さんが怒った理由

これは、自分が障害者差別をうけたから、ということではないようで、主にそのオーナーの態度を問題にしている模様。釈明ブログの中でもなお「他人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべる店主」などと表現していることから、相当屈辱的な断り方をされたのかと感じられる。が、これは乙武さん主観の感じ方なので、客観的にみてどうだったかは定かでない。

流れとして、まず乙武さんの友人が店内までいって手伝いをお願いする。それから10分待っても誰も来なかったと。この時点で普通の人間としては少なからず不機嫌になったでしょう。もう一度友人がお願いしにいく。すると、「車いすのお客様は、事前にご連絡いただかないと対応できません」と。待たせた挙句それかい!とか思ったでしょう。きっと。私なら多分そう思うし。

なんかそのとき友人泣いてたとのことで、断られて残念で泣いてたのか強くいわれて泣いてたのかはわからないけど、とにかく乙武さんが怒りを覚えるのに十分な材料が揃ったと。泣くぐらいに頼み込まれた店側オーナーもちょっとキレ気味だったでしょうね。その後2人が対面。衝突不可避。

どうすれば良かったのか

じゃ、どうすればこの問題は回避されたか。その店としては、車椅子の場合は事前連絡が必要というルールがあった。つまり、乙武さんが車椅子であることを事前にいっておけば問題は発生しなかった。ところが乙武さんはそれをしなかった。ここがまず乙武さん側の問題1つ目。

次に、事前連絡なしでもお願いすれば入店できるはず、と考えていた乙武さん。彼によれば「こんなことは初めて」らしいので、過去の経験上、今回も当然入れるものという思い込みがあったのだろう。問題2つ目。

店も店で、事前連絡なしの客は速攻で断れば良かったのに、なぜ10分待たせたのか。急いで仕事すればわずかな余裕ができるとでも思ったか。しかし、結局、その努力も虚しく手は空かなかったということか。そうだとするなら、店側の見積もりミスだ。もしかすると、これはオーナーの判断ではなくスタッフの独断だったのかもしれない。それで、それに気付いたオーナーが「勝手なことをするな」と、自ら対応に出向いたのかもしれない。とりあえず、これは店側の問題。

本来なら事前連絡が必要な車椅子の客がそれをしなかった場合の扱い、それはどうあるべきか。他の客を待たせてでも、スタッフ総出で運ぶべきか。場合によっては、階段に何らかの安全措置が必要かもしれない。

人情としては、何とかして運ぶべき、なのだろうし、そこでそれをしないというオーナーの判断は冷たい、非情だとなる流れも予想できるが、これは問題ではない気がする。ここでルールを破っているのは乙武さん側なのだから。店がそういうルールを定めている以上は従う必要があるだろう。それを守るのが嫌なら、その店を利用しなければ良い。

例えば、身長が140cm以下の人は乗ることのできないジェットコースター、あれは別に低身長の人を差別してるわけではなく、それ以下だと安全ガードがしっかりかからないから、安全の為に設けているルール。危ないから乗せちゃダメなのだ。乱暴な例かもしれないけど、車椅子な人を運ぶ際の安全基準があるのかもしれないし、そんなリスクは犯さないというオーナーのポリシーがあるのかもしれないし。

今回の問題は

…という感じで、表面的な問題はいろいろあるけど、今回の一番の問題は、乙武さんがその店の名前を晒して「悲しい思いをした」などと発言したこと、だと思う。ここがきっと一番問題。

これがどういうことを引き起こしているかと考えると、まず直接的には、その店が特定された上でマイナスイメージがついてしまう。そういう行為を乙武さんという有名人がやったことで、いろんな店が障害者の受け入れに萎縮してしまう(最初から拒否するようになるかも)、ひいては障害者全体がそのような問題を起こす可能性があるという、障害者に対するマイナスイメージもついてしまう。乙武さんにその気がなくても、これが障害者を代表する言動だと受け取られかねないということ。

さすがに、乙武さん自身今は軽率だったと認めているようだけど、いっぺん発した言葉は取り戻せないのよね。そしてそれが一度ネット上に流れてしまうと、その情報は半永久的に残る。今時点でこの騒ぎを知らない人も、後からそういうことがあったということを知ることができてしまう。この取り消しは効かない。

その言葉によってついてしまった印象、イメージもまた同じで、弁明でいかにイメージ回復を図っても、一度ついてしまったマイナスイメージは可塑性を持っていて、元の(良好な方向の)イメージには完全に戻れない。あのお店はそういう店なんだな。乙武さんはあんなこという人なんだな。障害者ってやっぱりそう考えてるものなんだな。これは、店にとっても、乙武さん自身にとっても、障害者全体にとっても、良いことはひとつもない展開にしかならない。

乙武さんのブログを読んでみると、自分も失敗したと認めつつも、まだ不愉快だったという感情は完全には消えてなくて、その中ではこれが精一杯ギリギリの釈明なんだろうなぁ、と感じ取れる。まぁ、これが今の乙武さんにできる最善でしょうね。

これは乙武さんに限らず、おそらく全ての人にいえることで、特に有名人は、軽率な発言をネットでやっちゃうと、その影響はどんどん拡散していっちゃうよってお話。

恵まれた環境であるが故

ところで、乙武さんは、これまで飲食店に車椅子で事前連絡なしにいっても困ることはなかった、といっていることから、障害者に対しては常にその手のサポートがあるのが当然である、という感覚がある気がする。これは、彼の周囲がすごく良い人ばかりで、常に誰かのサポートを受けられる状態が続いているという証左かもしれない。彼の普段の言動からして、彼に対する辛辣な誹謗中傷も少なくないと思うんだけど、それらも良い人バリアに護られて、多分彼に直接響いていないんじゃないかなぁ。だからいつもあんなに元気なんじゃないか。

これは、普通には理解できない感覚だけど、例えば、普段当たり前に使えると思っている電気。それが止まると一気に不便を強いられるようになり、人は「電力会社は何やってるんだ!」と文句を言い始める。乙武さんにとって、周囲のサポートというのは、この普段は当たり前に使える電気の存在に近いものがあるのかもしれないな、とも思ったり。

改めて、乙武さん、リア充乙!



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2013-05-06 15:15:46  無駄なことをしよう

生活に必要なことであるかとか、実用的であるかどうかとか、それが何の役に立つのかどうかとかいう思考は、実はむしろ思考停止を招くこともあるのではないか。という指摘。

それが活きる上で必要であるか、あるいは有用、有益、いわゆる有意義であるかどうか。それを決めるのは自分自身の価値観か、他者からどう評価されるかのいずれかで決まる。ただし、後者は結局、他者から自分の言動が高い評価を得られるかどうかを自分自身が再評価することによって、自分自身の中でその存在価値が決められるものである以上は、最終的に前者の判断基準によって有意義であるかどうかが決定されることになろう。

例えば、生きていくためにお金を稼ぐ、その手段として何か職に就き労働すること、それは誰もが認める有意義(というより必要)なことであろう。しかし、その自分が生きるということそれ自体の価値判断についてはどうだろうか。自分が存在すること自体に何か意味があるのか、有意義であると認められる理由が見当たるだろうかと考えると、これは非常に難しい。つまり、有意義である前提についてさらに言及していくと根本問題にあたってしまい、そこで有意義であるとか意味があるとかいった議論が成立しなくなってしまう、いわば意味の不完全性原理のような問題が現れてくることになる。

多くの場合、何かが有意義であるかどうかは、その逆の無用、無益、役に立たないこと、要するに無駄なことに対比されて評価されるものである場合が多い。つまり、無駄なことがあるから、それを解決するための有意義なことが存在する価値も生まれてくる。この考え方であれば、有意義なことの根底にある意味を求める必要性はなく、問題解決を為す手段としての有用性、有益性として意味を持ってくる。

そう考えると、実は、無駄は無駄ではない。無駄なことがあるために有意義なものがある。ときには無駄と思えることをして、それが何故無駄だと評価されているかを考え、分析し、それを解決する方法、考え方、道筋、その実現を図るための言動であり、支援するツールを生み出していくことも、有意義なことなのではないか。

無駄は、翻って有意義なのだ。必要なのだ。つまり、世の中に、真に不必要な、いわゆる無駄とされていることは存在しないのだ!(言葉は矛盾しているが、意味は通じるかな)



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