Nadja の日記
2017-01-23 22:00:01  夢の世界を旅しよう

夢と現実の違いを知ってるかな。

現実に暮らす我々から見ると、夢の世界はいかにもデタラメで、何でもありで、空虚なもので、実際には存在しない世界、想像の世界、妄想の世界だと思えるだろう。

しかし、どちらも自分の脳が認識している、或いは紡ぎ出している体験なのだ。その意味では両者を区別することはできない。

馬鹿をいうな。夢は既にある経験から世界が結ばれるのに対して、現実は未体験の事象を新たに経験として取り入れているではないか。つまり、現実は自らの主観だけの独りよがりな世界ではない。自分以外の他者との関わりもある他動的な性質が強い世界であろう。そう主張されるだろうか。

しかし、それは実は夢も同様である。実際に記憶にある夢の世界は、本当に自らの経験済みの事象ばかりだろうか。そう断言できるだろうか。

夢の記憶は曖昧である。しばらく記憶に残る夢もあるが、大抵の夢は揮発性が高く、目が覚めてからおよそ数秒から数分でその経験のほどんどが記憶から消え去る。意識的に夢の内容を脳内で反芻しようと試みるも、その確実なトレースは目が覚めた後では最早難しい。

これは何故か。

そもそも、我々の意識、思考、感覚といったいわゆるハードプロブレムに類する分野での科学的なアプローチの進捗は芳しくない。実際、文献に残る限りにおけるアリストテレスやデカルトといった時代の考察からほとんど進歩がないといって良い。ニュートンのプリンキピアに始まる数学的な、いわゆる定性的、定量的な論理が展開されるようになり、人の脳も生物学的、解剖学的に研究されるようになった後も、人の心、或いはその認識に関する研究は一向に進歩しないままである。

この理由を最も安易に考えると、現状の考察方法では心を解き明かせないと考えられるということになる。そしてそれは実際に的を射ているのではないか。

そう、心は現行の科学では解き明かせないのである。

厳密にいえば、人間の認識する範疇外に真実があると見るべきであろうということ。

例えば、1次元(線)に生きる存在に2次元(面)の理解は難しい。というより、完全に理解することは不可能である。同様に、2次元に生きる存在に3次元(立体)の世界は理解できないだろう。これと同じ展開で、我々の認識(空間と時間の中における物理)では、心の仕組みを理解することは不可能である可能性は高いのではないかということである。

話を戻して、夢の経験はなぜ記憶に残らないのか。

実は、夢の世界というのは、我々が常識として認識している物理法則を外れた世界なのではないだろうか。そこは空想でも妄想でもなく、我々の認識がこの物理現象世界から解放されて、いわば別の次元における体験をしているのではないか。

これが目が覚めると、我々の感覚は再び物理現象世界に戻され、夢の体験は次元が異なるため、いわば記憶やその認識のフォーマットが異なるために記憶に残らない。ただ、この世界の物理法則に適うものだけは記憶に残り、その割合が多いほど記憶に残りやすい夢ということになるのではないだろうか。


※この記事は意図的な戯言です。



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2016-12-09 00:47:24  速さこそが最大の価値なのです

迅速かつ早急なテコ入れが必要なのです。

速さのない対応策など、後に立つ後悔と同じなのです。
世界を支配するのは、すなわち速さだと思いませんか?
だからこそF1ドライバーはモテるのです。

遅い作業なんて、バカでもクズでも誰でも出来ます。
一生をかければ、ダメ人間でも名作を作れるのです!

速い方が、偉くて賢いのです!

平泳ぎや背泳ぎよりクロールの方が偉いのです。
カーブやフォークよりストレートの方が偉いのです。
懐石料理より、ファーストフードの方が凄いのです。
月刊漫画家より週刊漫画家の方が賢いのです。

つまり、速さこそが世界基準の価値なのです。
だからこそ、ボクは早急なテコ入れが必要だと論じるのです。

モノクマ劇場 -- ダンガンロンパより



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2016-11-27 14:49:55  SIerの呪縛

はてブのこのエントリーを読んで、私も思ってることがあるので書き記して置こうかと。

2016-11-25 エンジニアから見たSIerがクソな理由
http://crapp.hatenablog.com/entry/why-sier-sucks

私もいわゆるSIerといわれる会社を渡り歩いている技術者の端くれ。8年ほど正社員としてグダグダやった後に嫌気がさしてフリーになり、これまで10余年の間、延べ7、8社くらいソフトハウスやらメーカー系SIやら独立系ベンダーに潜り込んでシステム開発をやっている。確かに、その大半は“クソ”だったといえるかもしれないが、その理由の大半を占めるのは、開発における理不尽な縛りだったと思う。

その“縛り”というのは、現場の風紀上のルールやISMS等セキュリティ関係の縛りもあるけど、それ以上に開発環境の縛りの方ね。上のエントリの人もいってるけど、まず開発マシンとして与えられるマシンスペックがショボい。CPUにCore2Duoあたりが出回ってる時代にCeleronだったり、64bitなOSに移行しようかという時期にメモリが2GBしか積まれてなかったり、今現在私が使ってるマシンも2世代前くらいのCorei5にメモリ4GBで、Eclipseでtomcat2つ起動したらもういっぱいいっぱいになる。これなら3年くらい前にゲーム用に作った家のBTO(Corei7にメモリ8GB)の方がだいぶ高性能だ。

ローカル環境が高望みできない分、サーバが充実しているかといえば、それもない。開発用の共有サーバはあっても、アプリサーバやネットワークの設定などは管理者しか行えず、開発者は好き勝手にいじれない。まぁこれはおバカな素人が壊しかねんということでわからんでもないけど、アプリのメモリ領域を増やしたりACLを追加したりといったことをするには、いちいち管理者にお願いすることになる。OSの根幹に関わる設定ならそうするのが妥当であろうが、アプリの設定くらい開発者に委ねても良くないか。DBも当然システム権限のあるユーザは解放されていないので、DBの設定の変更は当然できないし、見ることもできない。これまた問い合わせることになる。あと、ユーザ(スキーマ)も開発者ごとに割り当てられることは稀で、大抵1つのユーザ(とスキーマ)をメンバー全員で使い回すことになる。

そうした開発サーバが存在するのはまだ恵まれた環境といえるかもしれない。開発サーバがないことすらある。そういう場合はどうするかというと、結合テストで使う環境やステージング環境などを一時的に使うということになる。そのへんになるとさらに利用制限も厳しく、そこにモジュールをのせる際は、運用メンバやプロパー社員を通してデプロイをお願いすることになるので、そう頻繁に使うこともできない。これでほぼ確実に動くだろうというコードになるまでそのへんで動作確認するのは控えてしまうということになる。また、そこにのせる際は、上手くいかなかった場合の原因究明用にアホみたいにログを仕込むという無駄な作業も発生する。トライ&エラーが非常にやりにくいのである。

あと、近年はネットワークのセキュリティが非常に厳しくなってきていて、開発現場のLANからインターネットに出られなくなっていたりする。つまり、開発中に普通にインターネットが使えない。どういうことかというと、ちょっとわからないことがあってもGoogle先生に聞くこともきない。褒められないことではあるが、ググって使えそうなコードをコピペなんてことは当然できない。それどころか、ApacheやSpringなどOSSのマニュアルやJavadocも参照できないし、OSSのライブラリを落としてきて試すということもできない。同様にmavenのセントラルリポジトリも使えないし、eclipseプラグインの配布サイトも使えない。まぁ、好き勝手に変なモノをダウンロードさせないとか下手なSNSは使わせない対策なのだろうけど、そのへんはプロキシでアクセス先をフィルタするとか、せめて現在の開発に必要なサイト(Java開発なのでoracleやsunドメイン)はホワイトリストにしてフォワードすれば良いものを、インターネット全面シャットアウトには閉口するしかない。これは開発効率ダダ下がりである。

さらに極め付けの“社内フレームワーク”とか“社内ライブラリ”といった必殺技を放ってくるSIerもある。これは何かというと、多くのWebシステムはOSSとして公開されているフレームワーク(JavaならSpring、PHPならCakePHPなど)を使って構築されているのだけど、それをそのまま利用するのではなくて、その会社内で建前上“さらに使いやすくカスタマイズ”されたフレームワークが用意されていることがある。が、これは技術者にとって迷惑以外の何者でもない。

そうした社内フレームワークの多くはSpringやHibernateなど複数のOSSをパッケージした薄いラッパーであり、基本的にはそれらのフレームワークを利用する感覚でいける…と思いきや、妙な制限がかかっていて本来使えるはずの機能が無効化されていたり、余計な追加機能が自動で働くようになっていて意図しない動作になったりする。しかも、その元のOSSはバージョンが最新ではなく1つか2つほど前のもので、解決されているはずの既知の問題をいくつか抱えたままだったりする。勿論そのOSS最新バージョンでは利用できるはずの便利機能も使えない。今現在まさに私はそうした災禍の渦中にいて、基本はSpringなのにサービスにAOPが挿せないという意味の分からないフレームワークを使わされている。そう、“使わされて”いる。「良かったら使ってね」ではなく「これを使え」という強制なのである。これは今回に限ったことではなく、社内フレームワークなるものを用意している現場では、例外なくそれを“使わされる”のである。

しかも、使わされる以上はサポートもさぞ充実しているのかと思いきや、そうでもない。フレームワークを作ってるチームはシステム開発とは別の部署で、彼らはまるでシステム開発チームのためにパッケージソフトをつくって提供してやってる的なスタンスだったりする。問題が起こったとき原因をこちらで調べようにも、丁寧に隠ぺいされていて、利用者側での調査にも限界がある。Javaライブラリであればjadである程度調べられなくもないけど、それがネットワークミドルとかだったりすると、サーバで稼働しているそれをこちらで調べることは不可能である。

「これはどうなってるんですか?」と問い合わせるのもワークフローだったりするし、問い合わせてから回答が返ってくるのも1日以上は待たされる。酷いときは3日経ってやっと回答が来たかと思えば「過去のQAのここに同様の事象に対する解決法があります」などとトボけたことを言ってきたりする。よしんばそうだったとして、それならすぐ回答返せよ!って話だし、もとよりQAの方法で解決できなかったから問い合わせてるのである。こちらは1週間後に始まる結合テストに間に合うように1日でも早く問題解決しようと動いてるのに、あっちの連中は遅くとも3営業日以内に回答すれば良いという姿勢で、その時間感覚が致命的にズレてるのである。

ここまででも十分クソ環境なのだけど、現場によってはさらに追い討ちをかける、ダメ押しが存在する。それはその現場に長年鎮座する老害技術者、先のブログでいう“長老”の存在だ。これに遭遇する頻度は今のところそれほど多くはないけど、今現在の現場ではまさにその存在の痛さに苦しめられているので、これについても書いておこうか。

過去に経験した長老の特徴をかいつまんで書くと、長年その現場にいるだけあって既存システムの仕様はよく知っている、そのため現場では広く信頼がある(ように見える)、しかし実際の技術力はそれほど高くない、仕様は知っていても中身のコードに関しては誤解が多々ある、現行システムのアーキに囚われていることが多い、ゆえに最新技術に疎い、と、こんなところか。

とにかくシステムの仕様を把握していること、PMをはじめプロパー社員よりもずっと長くその現場にいたことから、何かと言えばその長老に聞けば何でも返ってくる、いろいろ知ってる人という扱いになっていて、信頼も厚い。そのため本人も周囲に対して強気で、特に若い人に対して(相手が他社や現場のプロパー社員であっても)上から目線で話をする。思い込みも激しくて、何でも自分の知っている知識前提で語ろうとする。例えばWebサービスについてその長老はSOAPの知識しかない場合、インターフェースとしてWSDLがあるはずという前提で話すのだけど、RESTの場合は違う。もっといえば、既存のシステム間通信は全部SOAPだと思い込んでいて、それ以外はないと思い込んでる(というか、それ以外の通信方法を知らない)有様だったりする。もっといえば、SOAPという技術そのものが今どきは最早絶滅危惧種ということすら認識していない。

その前提でPMにも話をするのだから事態が混乱する。PMは技術については素人なので、この長老がいうなら確かなのだろうと信頼してしまう。とある機能が例のフレームワークで提供されているらしいという話になったとき、そのAPIは何なのかということになって、そこでフレームワークのチームに問い合わせれば良かったのだけど、その長老がいうにはWSDLがあるはずだと。実際、私も最初それを信じて調査を進めていたのだけど、どうもWSDLなんぞない。ならばRESTかと思いきや、実は単純なサーブレットだったというオチが付いた。Webサービスですらなかったのである。

ただ、それが判明した段階になっても自らの誤りを認めようとせず、フレームワーク側のせいにしたり、その調査の初動にあたった若手のせいにしたりして、恥ずかしげもなく自分は悪くないアピールをする。それでも彼は長老であるから、周囲は「その通りですね」と相槌を打って信頼性は揺るがない。実はちゃんと技術力があり知識がある人が彼の言動をみたら、彼がいわゆる“張子の虎”であることはバレバレなんだけどね。しがない技術力の私ですら現場入りして1ヶ月も経たないうちにそれを察知したくらいで。

以上はあくまで私の経験の話なのだけど、もしこれが今の日本における多くのSIer現場の状況であるなら、そりゃ米国のITイノベーションに歯が立たんわなーと思うことしきりで。といっても、米国の現場がどうだか私は知らないんですがね。少なくとも、GoogleとかMSとか、或いはAppleとかそのへんの現場って、アーキテクチャは常に最新を追いかけていて、セキュリティに配慮しつつもオープンで、技術力のないヤツは速攻で見破られて蹴落とされるといった感じで、だからどんどん先進的で実用的なモノが生まれてるんじゃないか、と想像してる。
 



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2016-05-22 09:56:44  経済大国ディストピア

戦後の荒廃から奇跡の急成長を続け一時は米国に次ぐ世界第二位の経済大国にまでのし上がった日本。その日本経済の成長率は近年低迷を続け、今では GDPを後進国である中国に抜かれてしまっている。日本の産業は、農業、商業の面は棚に上げれば、製造業、とりわけその技術力の質の面においてはおそらく今の日本の右に出る国はない。それなのになぜ日本経済はこのような凋落を呈すまでになってしまったのか。

一言で言えば、日本は縛りプレイをしているのだ。

まず無駄が多い。無 駄な書類が多い。そんなにモノを書いてどうするのか。そんなにハンコ押してどうするのか。ハンコといえば無駄な手続きが多い。無駄なワークフローが多い。 責任の所在なんてぶっちゃけ最終成果物の出来にまったく関係ない。良いものをつくるだけならつくる人に自由にやってもらったら良いじゃないか。そして無駄 な話し合いが多い。大勢で会議室に集まって終わりのない議論をかさねる。わかりきった報告をあえてWBSに落とし込んであーだこーだという。いわれんでも 状況がそうであることはみんなしってるだろう。それをお上に報告するなんて面倒くさいことする必要など無い。誰の功績だとか誰のせいでこうなったとか、そんなものはモノを作ってる最中にする話ではない。結論のでない打ち合わせなんかクソくらえだ。

そして規制が多い。あれをやったらダメ。これをやったらダメ。コンプライアンス?法令遵守?そんなものマジメにやってたら期限内に目的のものはつくれない。そのための調査をして書 類をそろえ、これまた面倒くさいワークフローで順次偉い人へ流しつつハンコを押していく。人員が欲しいのにいない。集めることも出来ない。国の法令だけな らまだしも、社内規定でさらに縛る会社も多い。セキュリティのためとか何とかいいながら、いざというときに国や監査機関から突っ込まれた時にいいわけでき るようにしているだけの書類作りに躍起なのである。そんなものに力を入れる暇があったら、もっといけてる設計しろ、作るものが決まったらさっさと製造し ろ、工程の無駄は極力省け。昔ながらのやり方がいつまでも通用すると思うな年寄りども。

規制ができると利権も生まれる。利権がある から、いったんできた規制はそれがいかに不合理であったとしてもなかなか撤廃されない。日本の経済構造の中でいったんついた公金はなかなか引剥せないの だ。規制ができる。省庁にその担当部署なり機関ができる。第三者といいながら実質は国の天下り調査機関ができる。大企業にはその役所付けの担当ができ癒着 が生まれる。談合が生まれる。そして公平で健全な競争が阻害される。その利権の強さにもよるが根強いものであればあるほどそれをつぶそうと動く者は社会から排除される。

じゃあどうすれば日本経済は成長できるのか?そんなもの自明である。上記の全否定である。無駄だと思ったものは徹底的に捨てる。古い成功体験は捨てる。断捨離 である。そして徹底的な規制緩和である。むしろ規制撤廃である。わざわざ事業参入をやりにくくして古参にいい思いささてどうするのか。それに何のメリット があるのか。もちろん古いやり方を保護する目的の規制もありそれがなくなると既存業者が死ぬという大人の事情もあるだろうが、それ自体がダメなのである。 古参事業者が正義である必要はないのだ。新しいやり方に合理性がありその方が産業が効率よく伸びるのであれば迷うことなくそちらを支持すれば良いのだ。非 効率なやり方をいつまでも保護する必要など無い。そうすれば利権もなくなる。むしろ利権からなくしていくのが先かもしれない。

中国がここまで急成長を遂げた姿を見て、その理由を考えたとき、中国にはほぼ上記がない、皆無であることに気付くのではないか。とにかく売れるものをつくる。カネになるなら偽物でもかまわない。品質なんかこだわらない。食品だといつわってプラスチックのまがい物を売ったって良い。ある程度使えてある程度消費者を騙せれば良い。だから規制なんかない。品質向上などという考え方自体がないのだから会議もない。あったとしてもいかに人を騙すかという方向のものだろう。パクリ天国。売ったもん勝ち。払った金は返さないよ。コレである。

そ う。経済を成長させるだけなら、中国を見習えば良いのである。少なくとも10年程度はそれでGDPはギュンギュン膨らむはずだ。バブルである。中身の無い 風船である。見た目だけ大きく見せるだけなら徹底的に詐欺に走ればOKなのだ。それはおかしい、それは盗用だ、不正だなどといわれようが、我々はあくまで 適切に処理していると一点張りすれば良いのである。どんなにディスられようがそれだけなんだから。

経済が膨らめばそれで良いのだよな。お前らが望んでいるのはそういうものなんだよな。ではそこを目指すが良い。なりふり構わずやってやれば良い。GDPを水増しするのなんて実は簡単だ。あまつさえ粉飾に手を染めたって良いのだ。それでも国際社会は侮蔑しつつもそういう国でも国家として認めざるを得ないのだ。他人が不幸になろうが関係ない。我が国さえ良ければそれで良い。国際協調?なにそれオイシイの?倫理?関係おまへんな。この世の中やったもん勝ち。やらないで泣いても知らないよと。はーはっはっは!



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2016-01-11 12:21:52  宗教の要不要論

宗教なんて必要なのか。宗教なんて霊感商法で金儲けしたり、人を狂気に走らせたりする悪害でしかないんじゃないか。そんな話は良く語られるところだと思うが、本当に宗教は人間にとって不要なんだろうかと考えてみる。

まず、宗教というのはどういうものかというと、端的にいえば、人間より凄い存在、人間を超えた存在、要は何か神様を仕立てて、人間がその神様に救済を求める思想ということになるかなと。その神様の教えを信じて従っていれば救われるし、背けば罰せられるという考え方が基本になっていると思う。これは、キリスト教なら神の伝道者たるイエス、イスラム教ならアラーを崇める預言者ムハンマド、仏教は開祖であるお釈迦様が、それぞれの神的位置(神を伝導する存在)に君臨しているだろうか。日本古来からある神道の考え方も、あらゆるものに宿る神様に対して敬意を払うことが美徳とされている。

しかし、近年はそんな超越的な存在は現在の科学文明の世の中で疑わしいということになってきている。そんな神様を信じたところで、いくら頑張っても報われないし、死ぬときは死ぬし、人は単なる生き物の一種であり死んだらそれまで、天国に行くとか地獄に行くとか眉唾話信じるなんてバカじゃないのって評価に変わってきていると。

でも、人間も底抜けのバカではないなら、実はもともと本心ではそんなこと分かってたんじゃないかな。それでも、何も救いのない現実世界において、何か救われる道というか、希望を残しておきたい、つまり、信じたいという思いによって宗教は成立しているんじゃないかと思う。

宗教などいらない、となったとき、では人は何を道徳の基準にするのだろうかとなってくる。つまり、善悪の判断、何をするのが良いことで、何をやっちゃいけないのか、ということは誰が決めるのか。そんなものは人間が自分自身で決めれば良いと思えるが、そうなると個々の判断で何をやっても良いということにもなりなねない。何が善行で何が悪行かの判断は、同じ人間である自分、或いは他人がするのではなく、人間ではない存在、人間よりもっと上の存在に決めてもらうと納得しやすい。

要は、善悪を決める者が人間であってはならないと。それは宗教によってある程度決められ、こういうことをすれば良い、こういうことをしたらダメ、良いことをするとご褒美があるし、悪いことをすると罰が当たるとなっていれば、人はそれに身を委ね従うのが楽だし、みんなもそれを行動規範にしているなら、それをコミュニティのルールとして都合よく利用していけるということなんだろうと。

宗教は、ときに人が重大な心のダメージを負ったときの緩衝材にもなる。例えば肉親や友人など身近な人を亡くした際、人は甚大な悲痛と喪失感に打ち拉がれる。そんなとき、人は死んでも天国に行くとか、その魂は残された人を見守る存在になるとか、死後にも何らかの世界に存在し続けると教えれば、残された人たちの心は幾分か救われる。葬式をしたり、死者を墓に納めて定期的に拝んだりするなどの行為は、死者のためではなく実際は生きている人たちが自らの心を救う行為だろう。だから宗教的な儀式というのは、とにかくその形式が重んじられる。

一方で、宗教で神様の存在を決めているのは、結局人間である。その教えも、開祖が説いた教えそのままではなく、いくつか都合の良い解釈に変更されて存在しているのが一般的である。結局、本当は自分はこう考えたい、こう行動したいのだけど、それが神様に禁止されているとなると都合が悪いから、聖典に書かれているこの文面はこういう意味なんだと見なして(解釈して)都合よく正当化する。神様は実はこう言いたいのだとして、人間の意向を神様の意向に転化していると。これによって、もともと単一の宗教だったものが多くの宗派に分かれて存在するようになる。キリスト教も大きくカトリックとプロテスタントに割れているし、それらの中にもさらに細かい分派が存在する。これはイスラム教や仏教も同様である。

そもそも異なる宗教同士では、信じている神様が違う、つまり、道徳が違うということになるので、それぞれの正義が衝突することもままある。また、同じ宗教であってもことなる宗派同士では、お前らの解釈は邪道だとか、いやお前らの方が間違ってるなどという小競り合いも生じてくる。そういうバックグラウンドがあった上で、異なる宗教、異なる宗派の人間からケンカを売られたら、宗教という建前を持ち出して報復をしかけるというパターンの紛争、戦争も歴史的に常態化してたりする。報復が次の報復を呼び、報復の無限ループ状態に陥ってる地域も多い。それは、建前は宗教だけど、実は個人的な恨み、妬みの発露である場合がほとんどだと思う。

要は、宗教が悪害だというのは筋違いで、実際は人間のエゴを宗教のせいにしているだけじゃないのって話。神様の教えだから、或いは神様の意向に反するものだからという理由で、あらゆる残虐な行為に及ぶ原理主義といわれる人たちは、神様にその責任をなすりつけて結局自分のやりたいことをやっているだけなんだろうと。まぁ、それも宗教の一要素ではあるので、一概に宗教は無害であるともいえないとは思うのだけどね。
 



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